
.
             人もまた、一本の樹ではなかろうか。
             樹の自己主張が枝を張り出すように
             人のそれも、見えない枝を四方に張り出す。
             身近な者同士、許し合えぬことが多いのは
             枝と枝が深く交差するからだ。
             それとは知らず、いらだって身をよじり
             互いに傷つき折れたりもする。
             仕方のないことだ。
             枝を張らない自我なんて、ない。
             しかも人は、生きるために歩き回る樹
             互いに刃をまじえぬ筈がない。
             枝の繁茂しすぎた山野の樹は
             風の力を借りて梢を激しく打ち合わせ
             密生した枝を払い落とす――と、
             庭師の語るのを聞いたことがある。
 
             人は、どうなのだろう?
             剪定鋏を私自身の内部に入れ、小暗い自我を
             刈りこんだ記憶は、まだ、ないけれど。
吉野弘/『樹』